2016年03月06日

ルーツ

 ルーツの話。
 ルーツの話ってあんまりしたくないんだよね。
 高校生の時のこと。うちの母方の祖先が中津藩の家老だったという話を友人たちにしたことがある。その時はへーっといって終わった。その後日、その話をした中の一人が「うちの母親がいうには、うちだって薩摩藩の家老堀内家やったって言ってたで」といって、へーって話になり、話した後にその子が舌をぺろっと出したことがあった。それを家に帰って話をすると、「そんなはず絶対ない!」と強い確信を持って母親に否定された。
 後になってから、母がなぜあれだけ確信をもって断言したのか、そして話した後なんで彼女がぺろっと舌を出したのかと思ったら、あ――…、なるほどね――…感じ悪―――…と思ったものだった。
 以来口に出してこのルーツの話をしたことは、ただの一度もない。でも、なんかやはり年を取ると家系をさかのぼって確かめておこうと思うわけで、いろいろと見比べてみるんだけど、個人情報保護法の問題もあって、その家老家までいけない。そこで、ここに書いておけば、「それはその人ですよ」と言う人が現れるかもしれないと思って、一応ここに書いて公表しておくことにした。
 これは母方の祖父の母親のルーツ。
 母方の祖父は大分で大庄屋(士族)だったO塚家で(これは検索にかからないためあえてイニシャル伏せ字)、この家の一粒種の曽祖父に縁あって嫁いだのが、この曾祖母。曾祖母は中津の大庄屋O川家の出で、その曾祖母の母の元にこの中津の城代家老の二男(祖父談。三男という説も)が養子に入ったもの。この中津の城代家老が一体どこの家かというのが遡れない。養子に入ったその人は「正造」といってなんか武家らしくない名前。ただ生まれた時の名前と養子に入った時の名前が同じとも限らないので、決めつけるのもよくないかと思う。
 中津藩は藩主と家老家の名字が同じ…というか同族なんだと思うけど、その家老家奥平家は数種の家があって、曾祖母のルーツがどこの家かわからない(大元をたどれば全部奥平なのだろうけど)。生田とか中金とか雨山とか分かれていて、奥平家にもいろいろある。。
 祖父が亡くなる前に聞いた話では「中金」という名字で(なんか日本人の名前みたいじゃなくて聞いた時がっかりした覚えがある。え?金なの?マネー?って感じだった)、下の名前もきいたんだけどそれが覚えていない。中金奥平だとおそらく江戸老中となり福沢諭吉と行動を共にした老中・奥平壱岐の家かなとも思う。ただし奥平壱岐は江戸詰めの家老らしく、壱岐の生年と曾祖母の生年を考えると、壱岐と曾祖母の年齢差は七十五才ぐらいあって、当時の常識で行くと孫は無理。祖父−孫関係は年齢的に近すぎ、壱岐が曾祖父にあたるならいけるかな…とは思うが、とにかく中金奥平家がどう分派したのかもわからないので何ともいえない。
 つまりわからないのはここ。
 そもそもこの城代家老(祖父談)と言う人はどういう人だったんだろうかと。
 もっと言うなら奥平壱岐との関係でどこの人だったのかと。
 奥平壱岐は福沢諭吉も若かりし頃長崎に留学しているのだが、曾祖母が最初嫁いだ家は、今は亡き祖母いわく「長崎にある家老の分家筋」だそう。たぶんこの若かりし頃数名が長崎に留学し、その時の縁で曾祖母も長崎に嫁いだのだとは思う。
 下男を一人連れて嫁いだのだけど(ていうか下女を連れていくべきじゃない?)、離縁された。「あまりにも何もできなかったから帰された説」と、「あまりに気位が高すぎて帰された説」と「姑との折り合いが悪くて帰された説」とがあったけど、どれが本当かはわからない。とりあえず二人子供がいたのに離縁され、うちの祖父の父親と再婚した。
 以前「まんだん」というコーナーを持っていた時にも書いたので覚えている方もいらっしゃると思うが、母と祖母と私とで杵築城に行った時、祖母が「うちのおじいさんがここの藩士じゃった」というと、係のおじさんが「名前がわかればどこに住んでいたかわかりますよ」と言って当時の城下町の地図を出してきてくれたことがあり(矢野さんなんだけど矢野さん二人いて、墓に書かれた名前の最後に「吉」がつくのを覚えていたんだけど、どっちも「吉」だったので結局どっちか分からずじまい。おそらくこれも同族分家)、中津城に行けばもしかしたらわかるのかとも思ったけど、中津城は今もう当時の城主の子孫奥平氏が管理してない。資料も行けばあるかなとは思うんだけど、ない時の無駄足を思うととてもじゃないけどそれだけのためにはわざわざ行けない。
 奥平氏は藩主も家老も元をたどれば同じかとは思うんだけど、そもそも奥平家は徳川家康の正室の姫である亀姫が嫁いで家が継承された家で、ひょっとして私にも家康の血が一滴ぐらい入ってるかも、と思ったんだけど、まあ傍系の傍系の傍系だしなあ…。
 ちなみに曾祖母は「世が世なら姫と呼ばれる身分でありましたものを」と言っていたらしいのだが、それを影で嫁たちに「世が世なら生まれちょらんわ」と言われてたらしい。いや、大庄屋O川家自体金持ちだった(最初の嫁ぎ先が貧相に見えたぐらい)し、一応士族だし、それを差し引いても出戻りにも関わらず十歳下の十七歳の曽祖父をたらしこんだ(恋愛結婚で、ついでに言うとできちゃった結婚だった)美貌の人だったので、その母親を想像するにつけ、世が世でもありえたかもしれないよとは思うんだけど。
posted by さきはなきよら at 21:01| Comment(0) | 日記
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