2019年05月15日

楠木正成について

 かつて私が歴史上好きな人物を三人挙げた覚えがある。
 菅原道真、張良、そして楠木正成である。
 三人に共通するのは「策士」というところだと思う。中でも張良は私に「私も参謀になりたい」とおバカな夢想を抱かせた人物で、これが諸葛亮ではなく張良だったのは、ひとえにさりげなさにある。諸葛亮はなんか私には目に見えて才気走った感がある。「は、この人すごい」と、よく考えるとすごいと気づかされる、そういうすごさがやっぱりいいな、なんて思うんだけど。
 なんで今回こんなこと書いているかというと、三人目に挙げている楠木正成なんだけど、いつだったかに私がライトな人間だからといって天皇崇拝をしているような勘違いをしている人がいた。
 違いますよ。
 楠木正成が好きなのは、まず郷土の英雄だから。
 楠木正成はうちの地方ではまず物心つく頃から祭り上げられていて神みたいな存在だった。子供の頃は間違いなく神様の一人だと思っていた。これが人間になったのが小学校三年ぐらいの時で、社会科で郷土史をやり始めるんだが、ここで歴史上の人物だと知るように至る。ここでは決して後醍醐天皇へ忠義を貫く忠臣とは教えられず、幼名、教育、地元の治水・分配事業や、いかにあの戦を戦ったかを教えられる。郷土史を学ぶ段が過ぎても、折に触れて正成のエピソードは社会の授業のどこかで出てきたり、生きていたらどこかで正成の話とすれ違ったりするのだが、大人になる頃にはそのゲリラ戦を通して「アイデアマン」ということがだんだんわかってくる。策士なんだよね。
 それで鎌倉方に勝利する一ルートを築くわけだが、あの小さな田舎からよく時の政権を倒す一勢力になりえたものだと感心する。
 そしてその死に際を、後醍醐天皇への忠義故にあえて裏切らず後醍醐天皇方につき、「天皇家への忠臣」として近代持ち上げられるのだが、私はその解釈は違うと思う。
 だって天皇家への忠臣なら、天皇になる人にひたすら忠義をつくさない? 後醍醐天皇の立場が危うくなり、廃される状況になれば、ちょっと様子見るよね。
 そうではなく、正成の場合は、後醍醐天皇という一個人への忠義だと思うのだな。
 忠義という言い方も何かふさわしくない。そりゃ立場上は忠義になるけれども。
 簡単に言えば、私が思うに正成は、後醍醐天皇が好きだったのだな。恋愛のそれではなく。
 もちろん前の政権の初期、鎌倉方についた人たちが、後どんどん滅ぼされていったことを考えれば、たとえ足利方に寝返っても、後一族ごと滅ぼされ、さらに天皇を裏切った逆賊という汚名まで着て歴史に名が残ることも想定し、そういう計算も働いていたかもしれない。でも彼が後醍醐天皇から離れなかった理由で一番大きいのは、後醍醐天皇とすごく気が合ったからではないのか。不敬だとののしる輩を恐れずに書くならば、親友だった。
 で、この、気が合ったからというのを想ったのは相当後になってからで、後醍醐天皇の陵墓に行ってから。意外だった。最初は人里に向かって作られているのかと思っていた。なるほどな、こういう場所がいいんだと思うと、正成とは気が合っただろうなと思ったものだった。
 気になる人は一度奈良県の吉野山にある後醍醐天皇陵墓と、千早赤阪村の楠木正成誕生地駐車場から西の景色を眺めてごらんなされ。城跡がいくつかあるから、それをめぐるのもいいかもしれない。
 私の中では、正成が「友のために命を捨てた」。
 男の友情っすよ。
 その潔さがやはり正成の気持ちのいいところ。
 歴史の解釈はいろいろあろうし、そんな感覚的なこと言われても…と言われるかもしれないけれど、私は歴史学者でもなんでもないし、忠臣としてあがめ奉られた正成も知らず、それどころかゲリラ戦で命を失おうとも、今もなお村人に「楠さん」と命日だったか生誕日だかに偲ぶ祭りを開かせる、知っているのはそういう人物像。あの小さな山村から、時の政権に大打撃を与えたアイデアマン、気概、男気。
 世間でなんとなく知られている正成と、私の中の楠木正成は違う。
 東京の皇居近くに忠臣として像があるそうだけど、むしろその「忠臣」の方が違和感を覚える。「忠臣」で片づけられると激しくイラっとする。

 私も左派は十把一絡げにしがちだけど、右派にもいろんな右派がいる。
 憲法改正だって、いつまでも日本国内に多く米兵を駐屯させて、騒音と事件に悩まされるのもいかがかと思うのと、いざとなったら日本国民のために命を捨てるかもしれない自衛隊員に、いつまで「違憲だ」と言って攻撃するのかと思うから改正賛成なのであって、別に戦争したいわけではない。「教え子を戦場に送るな」と掲げている教職員組合の人達も、自分の教え子が攻撃の矢面に立った時、「やめなさい、もうみんなで死にましょう」なんて無責任なことがいえるのかと思う。(だいたいあの人たちはこちらから戦争に行くことしか考えてない。実際は襲撃の可能性の方が高い。武器を持たなかったおかげで攻撃されなかったとかまだ冷戦時代の状況と混同している。)特に沖縄で米兵による暴行事件が起きるのだって、妻や恋人と長く離れ、恋人さえも作るのが難しい状況だから起こるのであって、これが遠くても二時間で済む距離の日本人ならまた違ってくるはず(要衝故に兵の駐屯はまぬかれないという事実を前提で)。いつまでもアメリカに守られて、いつまでも国として自立しないのはいかがなものか。それに憲法改正すれば、もしかしたら弾道ミサイル(核爆弾搭載のも含めて)を無化できる人工知能による「弾道ミサイル方向転換ロボット」とか作れるかもしれないじゃない。研究費が増えれば、別のところに応用も可能になる。だいたい今携帯電話が普及しているそもそもが誰のおかげかというとアメリカ軍のおかげで、確かに負の側面は大きいけれど、技術発達に一役買うのも事実。核に勝つのは核ではなく、核を無化する技術と政策だと思う。

 ただ人を殺すから戦争をしたらいけないのではなく、なぜ戦争をしたのかからをまずきちんと教え、二度と繰り返さないための教育をすべきじゃないのか。こんな食糧自給率も低く、資源もなくてエネルギー革命も後手後手な国で、いざただ海を囲まれただけでも、攻撃するか飢え死にするか侵略されるしかない状況を作っている現状、そしたらまたあの戦争の二の舞じゃないか。いざとなったらどんなに平和教育されていても自分が死なないために家族が死なないために発起してしまうものだ。
 戦争を美化して、死ぬ時の悲劇をお涙ちょうだいで売りにする作品も、誰も非難しない(私は嫌いだ)。左翼がそういう作品を非難しないのも、不思議なことだ。あの人たちは、なんのために何と戦っているのだろう。武器さえ持たなければ、最悪の事態を回避できると思っているのだろうか。最悪の事態に追い詰められたら一か月と持たず全部ひっくり返してしまう。人というのはそういうものだ。
 楠木正成のように、信念と心中する人はまずいない。
posted by さきはなきよら at 13:00| Comment(0) | 日々雑感

2011年04月03日

ミスチル、桜井書き下ろしの…

 今日は奈良県天川村へお参りに行ってきました。
 雪でした。
 洞川の方は梅もまだ咲いておらず雪が残っていました。
 まああちらは格別に寒いですが、それでも、もう四月なのに寒いです。
 しかしなんですね、人通りが本当に少ないですね。
 

 さて、ミスチルの桜井和寿が被災地支援のために作った曲を配信するそうで、それにあたってコメントを寄せていて、私流に略すと誤解が生じてもいけないので、一部そのまま転載すると、

 >でも曲を作って人を感動させるという行為も、この災害を前に不純に思えてしかたなくて、どうしたらいいのか何日か悩んでいた。
 
 同じ文脈で理解してるかどうかはわかりませんが、ちょっと思ったんだけど、こういうのって小説とか書く人って「いつも」じゃない? 

 人の不幸を書いて感動させる。
 人の死を題材にして感動させる。

 いつもじゃない?
 で、割としょっちゅうそのことについて考えたりしない?
 私はするんだけど。
 『巫女姫物語』を書いている時も、中編書き始めてからしばらくした頃、あのJR線脱線事故から何年ということでニュース番組で特集をしていたのを見て、実際遺体として写真見るまで死を受け入れられなかったという遺族の方のエピソードが紹介されてたんだけど、「あー、そうかー」って思いながら、ちょっと立ち止まり。
 別に『巫女姫』に限ったことではない、『緑青の海へ』でもそう。
 過失が人を死なせることもある。
 そして、立ち止まり。
 でも進む。
 さらに、感動させるように書く必要があれば、やっぱり書く。
 ただそこでいつも注意しなければいけない、というか、注意しているのは、同じようなエピソードを持っている人が、その時の登場人物の心の動きなり心情なりを読んだりして「違う」と思わないようにと気をつけてはいます。
 なぜなら、誤解とか、心象の間違いは、一番その人を傷つけるから。 
 私もストーカー関連の人に心の読みを全問不正解状態されていた時期があるので、わかるけど。

 
 でも、それを書くことによってあんまり「感動させる」って私は思うことはないんだけど。
 「感動させる」って言葉は非常に抵抗がある。
 どちらかというと、「心を動かす」。
 良きにつけ悪しきにつけ。
 平坦な日常の、あるいは、動けない心の、導火線なり、チャッカマンなりとなって。
 それでいいんじゃないかと思うんだけど。
 ま、それが結果として感動であったりもするんだけどさ。
 
 
 結局批判が怖いってのもあるんだろうけど、あるいは、人の不幸の上に業績を重ねる後ろめたさってあるんだろうけど、そんなこと気にしてたら何もできないし(特に人を題材に使うストーリーものとかは)、その批判さえも、何もない日常からしたら、いろんな力になりませんですかね。
 それが何かは、いちいち書かないけどさ。
 された本人の、のりこえる強さになったり。
 さらなる深みを目指したり。
 した本人の思考の元になったり。
 それをきいた人の、思考のもとになったり。
 そして、それぞれに答えを出せば、新たに動ける力になるんだから。
 
 
 そういうわけで私は、それぞれに意味がないとは思わないんだけど。
 その根本に、誠実さと、気持ちとしての「本当」があればいいんじゃないですか、と思うんだけど。
 ない、というか、別のことが透けて見えると、それをみんな敏感に感じ取って、批判が大勢になったりするんだよね。
 悪くいう人、わからない人には、いくら言ったってわからないものだし。
 
 
 余談ですけど、小説の場合、たまに誤読で批判が出ることあるんだけど、まあ、書き手もそれは書き方が悪かったって反省せねばならないところではあるかもしれないけど、『時をはらむ女』って小説書いた時に、「本当の恋」っていう単語が出てくるセリフがあるんだけど、そのセリフ全体の文脈は、「これからやりたい盛りになる君は、それやりたいままにやったらあかんよ」って、小六の男の子に対して書いたセリフだったんだけど、これある一定年齢に達した人何人かから「あなたは何もわかってない」みたいに言われたことがあって、いろいろ批判されたこともあったんだけど、「いや、あの、あなたのいう文脈では、私もそんなこと考えてないですぅ…」とか思ったことがありました。
 一人称小説だけど、大人の作文書いてるわけじゃないですし、セリフを言った「なみ」という登場人物に即してのセリフなんで、まあ当然です。
 全部の登場人物が言うセリフをいちいち私個人のものとして考えてたらちょっと問題です。分裂症です。
 まあでもなんでそんなことが起きるかというと、読んでいる側が自分の感情入れて読んでしまうとこがあるんですよね。
 そこが難しいところ。
 今から思うに、このことに対し批判した人は、概して「本当の恋をしたいと思っていたが、そういう人とは出あわずに〜」ってなった人なんじゃないかと思うんですけど。
 書いた側は感想受けるのは一人じゃないので、下手に批判すると変なとこまで邪推するので、読み手は作中人物の考えに関する所までは、あんまり口やかましく言わない方がいいです。
 もちろん論理的に筋が通ってなければ、それ以前の問題ですけど。
 
 
 なんか話がずれてしまった。
 今回の震災で「今私にできること」というセリフを耳にたこができるぐらい聴きましたが、なんか昔似たようなこと考えてて、それが『眠りの森』って小説でも書いてました。
 今あんな恥ずかしい小説間違えても書けませんが。
 あれ、十代だから書けたんでしょうねえ。
 そんな頃に震災ってあったっけ。
 いやいや、そうではなく…。
 
 
 さて、で、『眠りの森』じゃないけど、瀕死の日本が目覚めて、この局面を打開できるのか。
 とりあえず桜井さんをはじめとして、チャッカマンなり導火線なりに、なっちゃってくださいよ。
 「金」だけじゃ、心の火はつかないんだし。
 心の火がないと行動へと移らないんだし。
 ストーリーものに「即時性」は厳しいですしねえ、音楽ですよ、音楽。
posted by さきはなきよら at 18:18| 日々雑感

2010年06月19日

ストーカーのこと

 今更ストーカーのこと。
 

 私の記憶が確かなら、どんなストーカーかはどこにも書いてないと思うんだけど。
 でも半年前ブログを荒らしていこうとした人はストーカーされてたことが「気のせい」とかなんとか書いてらっしゃる。
 どういう種類のストーカーかどこにも何も書いてないのに、なぜ断言するのでしょう。
 裏を返せば事実を知ってるからでしょう?
 さて、やはり何か企みごとをするならば、それがどこに書かれて、どういう風に書かれて、そして自分の知っていることは書かれていたかどうか、頭の中にきっちり入れて、入れられないなら確認するぐらいの手続きを踏んだ方がいいと思うんだけど。
 計画とか構成を練って動くということを知らない人は、えてしてこういう失敗を犯す。

 

 
 さて本題。
 そのストーカーと、話したことはないです。
 何度もおみかけいたしましたが。
 それが2000年代前半になってから、携帯電話にカメラがつくようになったでしょ、あの辺りから姿を現さなくなりました。でもそれ以前はよくお見かけしました。
 最後に見たのいつかな、2002年かな。ごっつ気持ち悪かったんだけど。

 その当時私副業してまして、新大阪近くのビルにある会社に何度か通ってたんですが、(その副業のことは家のものしか知らないはずなんだけど)、そのビルにもう少しというところの、いつも通る裏通りを歩いていて信号にかかったんです。
 信号にかかって立っていると、はっと気付いて横断歩道の向こう側。
 いるんです、その人が。携帯いじりながら。
 で、信号変わって横断歩道を歩くんですが、やっぱり本人で、滅茶苦茶気持ち悪い、じーっと見ながらすれ違うんですよ、
 気持ち悪い。

 それが最後かな。
 あとは街の中歩くとき耳栓して周り見ないようにして歩くのでわかんないです、いるのかどうかも。でもカメラに収められてばらまかれるのを恐れてこないでしょう(わかんないけど)。
  
 とりあえずこの人の困ったところは、その情報をばらまいて、で、自分の都合のいいように解釈して――妄想でないなら、あえて解釈して、語るということでしょうか。

 しかもこちらが反論する場所をかつて持たなかったばかりに、本当に好き勝手に都合のいいようにしゃべってたようです、自分の周りの人たちに。
 それは、こちらから見れば明らかな「嘘」なんだけど。
 そしてなんかずーっと私の気持ちが自分にあると思っていらっしゃる。
 それを前提で話をしていらっしゃる。
 ないんです、最初から、私には。
 消えたのではなく、ないのです、最初から。
 そして、ないのに出せ出せとおっしゃる。
 正直に言えとおっしゃる。
 しかし、ないものは出せませぬ。
 これが正直な答え。
 単純明快なこの答えがなぜわからぬ。
 素直になれないから出せぬとおっしゃる。
 一体何の理由があって、私が素直にならないなどということがあろうか。
 その根拠が全くわからない。
 プライドが高いからとかも言ったっけ?
 はっきりいって低すぎるほうだと思うんだけど、自分のことを相手に投影して語らないでほしい。(人のこと何も知らないでそう決めつける根拠が何なのかも謎)
 そんなに気になるのは好きだからだろうという人もいるようだけれども、自分のしている行動をふりかえってみてほしい。
 彼のその行動を相手は「やめさせたいと思っている」、とは思わないのか。
 こちらがききたい。
 そのやめさせたいと思う思いが恋愛感情の「気にかけている」と、とる。
 ならば、一切こちらはもうこの人のことは犯罪者としてしかみるまいと思い、勘違いされるような対応は一切しなくなった。

 とりあえずこの人すごいうそつきだと思ったのが、いつだったか、アルバイトの帰りに、真っ暗な道で待ち伏せしてらしたことがあったんだけど、――待ち伏せしてたのがこの人だということは、後からこの人の歌で初めて確認したんだけれども。
 そのバイトの帰り道、そこを通ってるってことは、バイト先の数人の方々しかご存じない。「あんな暗い道歩いて帰ったら危ないよ」と注意されたこともある。でも当時健康のためになるべく歩くことはしようと思っていて、その道を選んで歩いていた。
 腕時計の針どころか、自分の履いている靴さえよく見えない路地裏で、角を曲がった瞬間人がいたんだけど、――夜の7時半頃かな8時半頃かな、この記憶があいまいなんだけど、その人はすごく緊張してて、さらにお盆だったので地元の人が親戚を迎えに出てるようにも、見えた、立っている位置からして。
 ただ背格好と緊張しているので、もしかしたら当人かなと思いつつ、歩いて前を通り過ぎ、本人だったら声をかけるだろう、違うなら違うだろうと思いつつ、通り過ぎる時にちらっとみたけどその暗さで全く見えず、全然知らない地元の人だったらジロジロ見るのも失礼なので、普通に歩いて通りぬけた。
 何もない。
 あ、何? 違うの?と思いつつずーっと歩いていったんだけど、もし本人だったらどうなんだろうと思いつつ、この角曲がったところでもうあちらからは見えなくなるなと思った時、立ち止まって振り返った。
 真っ暗。
 そりゃ暗い所に立ってたんだからこちらから見えるはずがない。
 まあ違うかな、しょうがない、もう戻らないからあんたも帰ってねと、もし、本人で、まだ見てる時のためにバイバイって手を振ったんだが(私の予測では見てないということだった)――見てたらしい。

 で、この一連のことでびっくりしたのは、彼がいうには、「私が」声をかけられなかったんだと。
 はあ?
 相手が見えんし誰かわからんし、そこにいるはずのない人が待ち伏せしてて、なんで私が声かけるんじゃい。
 「もすもす、あなた××さんですか、あ、ジモピーさん、こりゃまた失礼。」
 なんて言うの?
 あの暗い道に立ってたらわかるだろう。
 しかも、気持ちが高ぶって、でもその思いを飲み込んだために声をかけられなかったとか、わけのわからない表現をしてるんだけど、そういう内に込める精神状態の時は、バイバイなんて動的行動はせんで。
 
 改めて書くけど、緊張してたのは、お前の方、声をかけられなかったのもお前の方、人の行動調べまくって、のぼせあがってたのもお前の方。
 

 当時はこの嘘にびっくりしたんだけど、こんな嘘序の口序の口、自分の都合のいいように、人が(当時)直接何か言う場所がないことを逆手にとって好き勝手言う言う。
 ただ最大の疑問なのは、この人が一体どこでそんなすごい勘違いをしたのか、――つまり自分が、私に、ものすごく思われているという勘違いをしたのか、さっぱりわからないということ。
 これがストーカーをする人間の思考であり、性情だと言われたらそれまでなんだけど。

 ほとほと困り果てて、一回この人のこと名前も生年月日もわかってるんで、昔近所に住んでた知り合いの霊能者さんに見てもらったことあるんだけど、過去世で親子だったんだって。(霊能者は守秘義務があってその相談の中で得た秘密は法律でしゃべれないことになっているので、どうぞご安心。)
 その過去世の記憶をひきずって成仏できない「思い」がこの人の中に残ってて、こういうことをさせるんだって。
 そうなのかと思って一回清めたんだけど、それでもなかなか引かない。
 この前また別の用事があってその霊能者さんに電話したとき、その話題になって、魂を送り返すときにその人に、「もうあんたの時代は終わった」って言ったらどうと言われたんだけど。
 でもそんなこともう考えずに今は意地だけでやってるんじゃない?
 嘘いっぱいついた後だし、今更引けないよね、みっともなくて。

 ということで、本人にここではっきり告げておくと、「最初から、私にはあなたに対する気持ちは全く、何も、ありません。」ということでよろしくお願いします。
 私の好きなタイプと全然違うし。
 一説にまたいとこの男子に顔が似てるっていう人いるんだけど、そしたら私にもどこか似てることになるわ。
 でも似てないと思うんだけど、全然。
 どういう人か知らない母は霊能者さんの言葉をきいて「どこかで血がつながってるかもしれないんだから悪くいうのよしなさい」とかいうんだけど、どこにもつながってる気配はないし。
 それ以前に顔なんかどうでもいいし。

 

 ちなみに念のために書いておくと、第三者から見たら何のことで誰のことかわからないと思う。
 馬鹿な真似はよしましょう。

 
 
 

  
  翌日追記:
 

 なんでストーカーされてるのに警察へ訴えないのとおっしゃる方もおられようが、ストーカー法というのはザル法で、生命財産の危機におびやかされない限りは警察はなかなか動いてくれない。何月何日に待ち伏せされたとか、裏でこそこそこんなことをしているではなく、確かな目に見える証拠がないとダメなわけです。
 あの法律で救われる人は、だから、生命財産の危機におびやかされるようなすごい状況にあってる人ってことでしょうかね。

 あと名誉毀損は、私が以前警察に相談した時に該当する侮辱罪と同じ「親告罪」なんですが、親告罪というのは告訴する権限が本人にあるため、警察は和解された時に自分たちの捜査が無駄になるのを嫌ってなかなか被害届を受理したがらない。それで一般的には弁護士を連れて行かないといけないんですが、その弁護士を連れて行っても、なかなか受理したがらないそうです。
 それ以前に弁護士というのは、相談するだけで一万円かかる。
 これに某大な証拠を集めて戦うとなると、とんでもなくお金がかかる。
 知らない人は簡単に「なんで訴えないの?」というんですが、こういう事情があるからです。
 ちなみにストーカー法も親告罪。途中で訴えられるのを嫌って大量の和解金を支払ったりされれば、結局捜査は水の泡となりますよね。

 それから上の内容で、相手のストーカーのことを丁寧に書いていますが、丁寧に書くのは馬鹿が暴れるとうっとおしいから。報復をしたい気持ちは山のようにあるけれど、一応押さえて書いてるだけです。変なうがち読みはご遠慮ください。(もう勘違いはご勘弁)


 

☆6月23日追記

 上に書いている夜待ち伏せされた時の現場の動画。
 スタートより正面の暗闇、終了時左上の明かりの手前の暗闇にその人は立ってました。

 (はっきりいって何も見えない)

 また、バイバイした現場。
 中央から車が走って出てくるその奥の暗闇のあたりにその人は立っていたと思われる。

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posted by さきはなきよら at 00:42| 日々雑感